さまざま、和の精神とリレーショナルリーダーシップ


 

リレーショナルリーダーシップを日本文化に沿って表現すると、「和の精神」を実践するリーダーシップと言い換えられます。

 

ただし、ここでいう和の精神とは、人と対立することを避けて、表面的に仲良くやっていくという意味での和ではありません。私たちが考える和の精神とは「まず皆が自由に正直に話し合い、お互いの意見や価値観に違いがあることを認め、その違いを尊重したうえで、共通の目標のために協力し合う」という、相違や対立の存在を前提とする和なのです。

 

 

聖徳太子の17条の憲法の第1条には「和をもって貴しとなす」とありますが、同時に「衆とともによろしく論うべし」(17条)ともあります。つまり、論じることを前提にする「和」を指しているものと私たちは理解しています。 

また、孔子の論語第1巻の13段では、「君子和して同さず、少人同して和さず」とあります。この場合も、和することと同することを明確に区別し、相手に簡単に合わせる後者を否定しています。

 

 

聖徳太子の時代から連綿と受け継がれてきた日本の和の精神と、近代合理主義的思想に反発するかたちで20世紀末から欧米で台頭してきたリレーショナルなアプローチには、奇しくも人間の尊重、多様性の大切さ、対話主義などの多くの共通点があります。その意味で日本の伝統的な和の精神は、21世紀においてはグローバルに通用する革新的な価値を秘めた思想・哲学であると言っても過言ではないと思います。

 

 1895年にロシアに生れたバフチンはポリフォニー(多声音楽)とカーニバルという言葉を用いてリレーショナルなアプローチに思想的な背景を提供しました。しかし、日本にも同様の指摘をしている方がいます。バフチンの前年、1894年に生まれた松下電器産業(現パナソニック)創業者の松下幸之助氏です。経営の神様といわれた同氏は、自然のゆたかさを比喩的に引用しつつ、「さまざま」という言葉を用いて人間とその多様性を尊重することの大切さを見事に表現しています。この文書を見つけた時の感動はいまでも忘れられません。

 

 

 さまざま

 

 春が来て花が咲いて、初夏が来て若葉が萌えて、野山はまさに華麗な装いである。さまざまの花が咲き、さまざまの草木が萌え、さまざまの鳥が舞う。さまざま、とりどりなればこそのこの華麗さである。この自然の装いである。

 

 花は桜だけ、木は杉だけ、鳥はウグイスだけ。それはそれなりの風情はあろうけれども、この日本の山野に、もしこれだけの種類しかなかったとしたら、とてもこの自然のゆたかさは生れ出てこなかったであろう。

 

 いろいろの花があってよかった。さまざまの木があってよかった。たくさんの鳥があってよかった。自然の理のありがたさである。人もまたさまざま。さまざまの人があればこそ、ゆたかな働きも生み出されてくる。自分と他人とは、顔もちがえば気性もちがう。好みもちがう。それでよいのである。ちがうことをなげくよりも、そのちがうことのなかに無限の妙味を感じたい。無限のゆたかさを感じたい。そして、人それぞれに力をつくし、人それぞれに助け合いたい。

 

 いろいろの人があってよかった。さまざまの人があってよかった ー 。

 

松下幸之助著 「道をひらく」」より